あるマルチチュードの書架
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死の壁 養老孟司 2004 新潮新書

..生活感を嫌悪する人々
 「」が身近でなくなった。自殺や、他殺や戦争のニュースが毎日、新聞・テレビで流れているのに、である。どころか、最近の人は人間くさいものをすべてなくそうとしている。自分の体は服で隠すのはもちろんのこと、朝シャンをして体臭を消す。トイレには芳香剤。洗剤は消臭効果と花の香り付き。みんな意識だけが自分で、それ以外はアンドロイドのように人工的なものに見せたいようだ。しかし、自分の体をなくすことはできないし、トイレに行かないわけにもいかない。「」だって身近にある。ハエや蚊を殺したり、食べ物だってみんな元は生きていたものだ。や人間くさいものを表の世界から追い出すと、それは「変形」する。そのものや概念は、置かれる場所に規定される。たとえばセックス(性交)も基本的に表から追い出されているが、直接の人間関係(肌の触れあい)であるセックスにおいて、人間の体、裸そのものがセクシーであり、欲情をかき立てる。隠されていたことを同時に表現すれば、そのセクシーさは増す。裸になることは、表の世界でかぶっていた仮面を外すことだから、そこでは表の世界から追い出されたものが噴出する。SM、スカトロ・・・。
 また、現実社会(表の社会)で行えないことをヴァーチャルに体験するのも当たり前だ。テレビゲームはもちろんのこと、ビデオやメール、ケータイでの会話もそれに近い。マスコミが流す情報も仮想体験といえる。しかし、それらは情報であって体験でも知識でもない。情報を基に自分で考えることで知識ができ、現実の体験がその知識を実証するのだ。
 私は自分の体臭が好きだ。自分の体臭をかぐと安心する。体臭はその人が生きてきた環境を表している。体臭は体の雑菌が作り出す。その雑菌は環境によって様々な種類がある。そして様々な雑菌が生み出すにおいのハーモニーが体臭である。だから、私は(他の人も無意識に?)他人を体臭で判断(他人を知る情報の一つ)することもある。
 「何となく気が合わない」と感じるのは、いくら香水をつけても消すことのできない体臭が違うせい、つまり、生きてきた環境が違うせいかもしれない。
 今の日本では、殺菌作用を持つ石けんや洗剤が主流になっている。それで、体臭とともに自分が生きてきた過去も洗い流すのだ。その結果、本来その環境で生きていれば自然につくはずの免疫さえつかず、病気に弱い人間が育ってしまう。赤ちゃん用の石けんや洗剤のCMを見るたび、これからの子供はどうなるのだろうと心配している。衣服や部屋の消臭殺菌スプレーに至っては、無菌室を作るつもりなのかと思ってしまう。銀イオンが体にどのような影響があるのかは知らないが。
..」とは何か
 この本を読んだきっかけは「」とは何かを考えているときに偶然手にしたからである。著者のに対する考えは秘本的に私と一致している。(以後述べることはあくまでも私の考えであることを断っておく。)
 私は、には「個体的な」と「社会的な」があると考える。ここの細胞のは物質代謝として常に起こっているわけだが、それはリニューアルされるのでとは区別する。しかし、歳とともにリニューアルしない部分が徐々に増えてゆき、最終的には老衰に至る。交通事故などで亡する場合も、破壊された細胞はすでにんでおり、いずれ心臓が止まり、血流がなくなり、それぞれの臓器や器官がんでいく(再生せず、可逆的な生命活動も起こらない)。つまり、個体のというのは生きている個体が一連の過程を経て骨だけになっていく、その過程全体を指す。
 それに対して社会的な(これは人間にしかないである)は、個体の生とは密接な関係にあるが、同じではない。社会がその人を生きていると認めるか、んでいると認めるか、あるいはその社会の一員として認めるかどうか、ということである。だから、村八分や各種の差別なども社会的なであり、その人の存在は認められない。
 ところが、「近代的個人」という概念ができてから、は社会的にも「個人の」と考えざるを得なくなった。個体はんでいなくても、個人がねば、それが社会的なとなる。しかし、個人がいつんだかということは、医学的、あるいは科学的には証明できない。なぜなら、個人とは、その外面だけでなく内面も含むからである。いやむしろ、内面をさして個人と考える人が多い。だからといって、寝ている間は意識がないのでんでいるなどと思う人はいないだろう。だから、人のを法律で決めることなどできないのだ。「臓器移植法」などは、人権を無視した合法的な殺人を認める法律である。生きている(あるいはにつつある、もしくは生のわからない)人間から、心臓などを取り出してドナーを完全なに至らしめる法律だからである。
 確かに長生きしたい人間は多い。「個人」という概念がを否定するからだ。しかし、人のはいずれはやってくるのだ。臓器移植をして助かったと思った命も、突然交通事故で失うことだってある。恐ろしいのは自分がぬことよりも、いつぬかを自分が知ることである(それは医者の判断、あるいは予言で知るということなのだが)。そのときに大切なのは、いかになないようにするかではなく、ぬための準備をすることなのではないだろうか。人間は必ずいつかはぬ。そういった意味では、毎日がぬ準備をするための時間だともいえる。私は生きるために努力すること自体を否定するわけではない。他人の人権を侵さず、自分の意志で生きることはその人の人権である。しかし、このことはとても難しいとだけ言っておきたい。
..自殺について
 この本にもあるように、「自分の」(一人称の)はない。ぬとき以降、自分はないからだ。あるのは、他人ののみである。だから、自殺しても楽にはならない。楽になるはずの自分がないのだから。自分のが問題になるのは、家族をはじめとする自分以外の人間である。
 「んで責任をとる」というパターンを最近よく目にする。しかし、んでも何の意味もない。いずれ来るが早まっただけである。ぬならもっと別の責任の取り方があるはずである。は何も解決しない。ましてや「命の大切さ」を教えるはずの校長先生が自殺するなどというのは、その人がやってきた教師という人生そのもを否定することなのではないだろうか。その上、世間に「命の大切さ」と逆の影響を与えるのだ。
 もちろん生きていくのはつらいし、家族にも迷惑や危害が及ぶかもしれない。しかし、そのときこそ、家族とともに問題を乗り越えていかなければならないのではないだろうか。少なくともそれだけの罪を犯したのであろうから、その罪は償われなければならない。それこそが、先生に限らずその人にできる最高の教育のはずである。


Thu Dec 14 22:30:56 2006

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌



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